2014年

6月

16日

しかし、神は私を愛される

哀歌3章21節から33節までを朗読。

 

 22,23節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。

 人は望みを持っていないと生きることができないと言われます。哲学者のキルケゴールという人が『死に至る病』という本を書きましたが、「死に至る病」とは肉体の病気ではなく、「絶望」ということです。人が望みを失ったとき、その人はたとえ肉体は生きていても死んだ者だと、そのような話です。私たちの生活でもそうだと思いますが、朝起きて、「さぁ、今日は何をしようか」とか、若いころは考える間もなく次から次へと、あれもして、これもして、こうして、ああして、ああなったら今度はこうしてと、いろんなことを瞬(またた)く間に考えますが、年を取ってくると、さて何をしようかと考えないと出てこない。そのうち「今日も生きなければいけないのか」というようになります。

 私の家内は、普段起きるのが苦手なのです。遠慮しているのか、私が起きるまでいつも寝ているのです。ところが、旅行に行くとか、何か遊びに行くというときには、私より大体1時間前には起きますね。希望があるのです。皆さんでも恐らく似たり寄ったりで、普段礼拝に行くときには遅れても、行楽に出かけるときにはサーッと間に合うように準備します。「これをやるぞ」とか「これをしたい」という「望み」を持って生きるのは幸いだと思います。ところが、現実、いつも望みがあるわけではない。そのような楽しいことが続いて起こることは、普段の生活にあまりない。年に何回かそのような旅行をしたり、パーティーがあったり、いろいろな行事があって、それを楽しみにしますが、普段は「つまらん。まぁ、今日もまた一日同じことを、昨日と今日、今日の明日、今日は何日だったかしら、何曜日だったかしら」と、曜日すらも分からなく、日にちも分からないくらいにワンパターンで生活が過ぎていくと、生きていると言いますか、目が覚めるのが楽しみにならない。願わくばこのまま目も覚めないでくれよと、思いたくなるような現実があります。では、私たちは失望ばかりしているかというと、そうでもない。曲がりなりにも生きているわけです。案外と仕様もないことだけれども、 “おぼれる者は藁(わら)をもつかむ”で、これが希望になるだろうかと思うようなことが希望になるのです。

 

だから、普段、そのようには感じませんが、体を弱くして生きるか死ぬかになってくると、どんなことでも喜びに変わるのです。「あ、これがあるから私は生きているのだ」というようなものがある。元気な人にとっては「そんなものは当たり前ではないか」と思うことも、体が弱ってくると、ちょっとしたことが喜びに変わる。長く患って体の弱っている人にとっては「今日は食事ができた。味噌汁一杯残さずに食べられた」ということが喜びであり、「よし、今度は、次はもう少し食べようか」というように、意欲といいますか、そういうものにつながるのです。普段元気だと、そういうことをちっとも感じません。時には食べ過ぎて困るから、少しダイエットしなければ、食べるものを減らさなければというぐらいに感じます。しかし、体が弱って病んでいると、そのような小さなことすらも生きる望みになり、喜びになります。ところが、私たちはそこまで衰えていない。まだ元気だと思うから、「もっと希望が欲しい、生きる生きがいがないだろうか」と考えて、いろいろな行事の計画を立てて、それを目標に「あの日までには」「この日までには」と望みとします。そうすると心に力がわいてくる。また高齢者になってくると、そういうものが少しでもないと、ほかにすることがないから、常に何かを計画する。ところが、そういうものが続かなくなる。皆さんによく言いますように、「行事追っかけ症候群」という病気になるのです。常に常にイベントがなければ困る。何かそのような希望を持ちたいと思いますが、どんなことをしても、そういう希望はどこかで終わります。行事を考えたり楽しいことを計画したり、望みを持ちたいのだが、どこにもない。子供にも期待できない、主人も駄目、自分も駄目、周囲に何も望みを持てない状況に置かれても、なお生きなければならない。そのとき、生きる望みはどこにあるかが問われます。

 

 3章1節から20節までには大変苦しみに遭った人のことが語られています。

 

 ちょっと読んでおきましょう。3章14節から18節までを朗読。

 

 この哀歌を歌った記者、恐らく預言者エレミヤだと言われていますが、彼は大変な苦しみに遭って、生きる望みを失ったのです。18節に「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」。希望も何もなくなって、ただ絶望だけがあるという事態に置かれた。19節に「どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください」。彼は徹底して失望落胆の中に置かれたのです。20節に「わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる」と。そして自分のこれまでのことを考え、その受けた悩みと苦しみ、失望落胆、そういうものを心に思うと、もう生きる望みがない。沈みきった心を持ち上げる力がない、顔を上げることができない。「しかし」と21節にあるでしょう。確かに現実はそうであって、いろいろな状況や事柄、周囲の条件は失われて、望みを得ることができない、失望と落胆の中、苦しみの中に置かれてしまった。それを思うと立つ瀬がないと言いますか、立ち上がる力すらもない。「しかし」ですね、「しかし」、聖書の中でよく「しかし」という言葉が出ますけれども、これは非常に力強いですね。どんな闇の中に、暗闇の中、失望落胆にあっても、「しかし」と光が差した。何かと言いますと「わたしはこの事を心に思い起す」と歌っています。「この事」とは、そのあとの事ですが、それを心に思う。「ああ、これがあるから」と心がそこに向くとき「それゆえ、わたしは望みをいだく」。望みが生まれてくる、希望がわいてくるという。真っ暗闇の中に、行き止まって道もなく、これでおしまいと思われたところに、そこから光が差してくる。そんなものを私たちが持つことができたら、どんなに幸いか分かりません。見えるところ、自分の生活状態、事柄、あるいは自分の身体的な状況、周囲の家族の状況、またすべてに失望落胆し、希望が持てない事態や事柄の中にあっても「しかし」と言えるその力はどこからくるか?

 

皆さんにとってこれがあればこそというものは何でしょうか?失望落胆していちばん最後によりどころとする、「しかし」と言って望みが持てるものはいったい何でしょうか? 「しかし」と思って、預金通帳を開いて「よし、よし」と思っても、それはすぐに消えます。「しかし、ああ、そうだ。あの孝行息子がいるから大丈夫」と、そんなものは当てになりません。そのうち捨てられるのですから。ここに「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」とあります。この哀歌を歌った記者は22節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」と語っています。「この事」とは、神様のご慈愛、ご愛は絶えることがなく、神様が私を憐(あわ)れんでくださるあわれみは尽きることがない、消えることがない。神様が愛なる方ですと、そこに目を留めていく。これが私の望みであり、よりどころだと歌っているのです。

 

これは私たちも例外ではありません。死の陰の谷を歩むような事態の中、望みのない中にあっても、なお私たちが最後まで望みを持ち得る場所は、「神様は私を愛してくださっている」という、その確かさに心を置いていく以外にない。

 

 よく教会に来ますと、「神様を信じなさい」と言われます。イエス様がベタニヤ村からエルサレムへ、朝出かけるときに、いちじくの木に「こんなものは枯れてしまえ」と言われたいちじくの木が、次の朝、その場所へ来て見たとき枯れていたという記事があります。そのとき、ペテロが「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」と言うと、イエス様は何とおっしゃったか?「神を信じなさい」と言われたのです。「神を信じなさい」。これは、なかなかいい言葉、「いい言葉」とはおかしな話ですが、「神を信じなさい」とは分かったような分からないような、ちょっと抽象的です。神様を信じるって、何?そのあとでイエス様は「だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」とおっしゃいました。これは神を信じるとは具体的に何を信じるかをイエス様が語っているのです。山が海の中に移れと言って、信じたらそのとおりになると、皿倉山が洞海湾にはいって埋め立ててくれたら土地が広がってよさそうだなと、そのようなたぐいの話ではなくて、実は「神を信じなさい」と言われたあとで、「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」とおっしゃった。「そのとおりに成るであろう」と聖書に書いてあるから、私はこの山が向こうへ移るようにお祈りすれば、もちろん神様はなし得給う御方です。イエス様が「神を信じなさい」とおっしゃったのですが、何を信じるのか。「神」と言われても漠然としています。大きいですから、いろいろなことがある。だから、イエス様はそれをかみ砕いて「この山が海の真中に移れ」と。言うならば、全能者でいらっしゃる、創造の主でいらっしゃる神を信じなさいと言っているのです。神様は力ある御方、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)とあります。今申し上げましたいちじくの記事はマルコによる福音書11章にありますが、その少し前10章にそのことをイエス様は語っています。神様はどんなことでもおできになる、オールマイティーな方、全能の神でいらっしゃることを信じなさいと言っています。神様は大きな御方ですから、「神様」という一言で表すにはあまりにも漠然としすぎています。

 

人間関係でも同じです。「あの人はとても親切な人よ」と言うと、「え、そうよ。あの方は本当に親切よね」と、二人の人が一人の同じ人を見ていますが、それぞれに思いは違うかも知れない。どういう意味で親切なのか、それは自分が接した事柄を通してしか分からない。それと同じで、神様をどのような御方と信じるのかと、それぞれのときに応じて違ってくるのです。そのような言い方をすると、ちょっと誤解を招きますが、神様は全能の神であると信じることもできます。また、ここで今お読みした22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」と信じることも出来ます。この前のところからの続きで言うならば、いろいろな悩みや苦しみに遭って、希望を失い、心打ち沈んでしまう、生きる力をなくしている彼に、「神を信じなさい」と言っても、「神を信じてどうするのだ」となるでしょう。ところが、「この事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」という「この事」とは、もっと具体的なものです。神様が愛なる御方であって、私を愛してくださっている、神の愛を信じることです。私たちは問題や事柄に応じて神様を信じます。それは一つの言い方として間違いではありません。「神を信じる」と言う時、具体的に私は神様のどういうことを信じているのかが大切です。

 

私たちは病気のときに「この病気を癒してください」と祈ります。そのときに「神を信じなさい」と言われても、病気と神様との関係がはっきりしなければ信じることが出来ません。「神を信じたらこの病気がどうなるの?」と思うでしょう。そのときに「神様は『我はエホバにして汝を醫(いや)す者なればなり』(出エジプト15:26b)と言われます」と信じる。主は癒し主でいらっしゃる。神様は私を癒すことができる御方ですと。病を与える御方は、またその病をも取り除くことができる。これが「神癒の信仰」です。具体的に神様の癒しを信じる。私たちは神様の何を信じているのか。これが、案外と抜ける、あいまいになって、信徒の方々と話をしていても、お互い「神様を信じましょうね」「ええ、そうですよね。神様を信じたら大丈夫ですよね」と言いながら、それで「神様の何を信じるの?」と問われると、「え!いや、神様を信じているのですよ」「だから、神様の何を信じるのですか? 」「神様を信じていたらいいのじゃ……」と言います。神様を信じるというだけでは私たちの信仰がもうひとつ飛躍しないと言いますか、はっきりとしないのです。あいまい模糊(もこ)とした空気をつかむような感じで、気分として信じているだけになってしまう。そのために「神様は確かにここにいます」と言えない。「神を信じる」というのは間違いではないけれども、かなりアバウトな、あいまいな表現でもあると思います。だから、神様はいろいろな力を持ち、権能を持ち給う御方です。神様は全能者であり、また神様は創造者、造り主でいらっしゃる。神様は私たちを愛してやまない愛なる御方で、また神様は義なる御方であって、すべてものを正しく裁き給う御方です。そのような一つ一つのことを具体的に神様の事柄として信じていく。皆さんが人から思いがけない、自分の身に覚えのない非難や中傷をされたとする。そういうときにグッと我慢をして、「私は神様を信じているのだけれども」と言いますが、その神様の何を信じるのか。そのときはっきりと「私は誤解されてこのような不当な扱いを受けていますが、神様、あなたは義なる御方、正しい御方で、すべてのものに報いてくださる御方です」と信じること。神を信じるのは信じるのだけれども、神様のどういうことを信じているのか。そこまで踏み込まないと、その信仰はいのちにつながってこない。

 

そうなると、常日頃いつも「神様ってどういう御方なんだろうか」ということに心を向けなければおられなくなる。祈っているけれども具体的に、神様の何を信じて祈っているのか。だから、確かに神様は力ある御方、どんなことでもおできになる御方ですと信じますが、事によってはそれが必ずしも合致していかないと言いますか、何かこう、そぐわない思いになりますね。そういうときは、実は神様のもっと違った権能と言いますか、神様の御性質をはっきりと自覚していないからです。

 

 だから、今読みました2節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。神様はご愛に満ち、憐れみをもって私をこのように支えて生かしてくださっている。文語訳では「われらの尚ほろびざるはエホバの仁愛(いつくしみ)によりその憐憫(あわれみ)の尽ざるに因(よ)」と言われていますが、ただ神様の愛のゆえに生きる者とされ、生かされている、許しを得ている者だと知ることでしょう。だから、このとき苦しみと悩みの中で希望のない、闇の中に置かれた人が、神様を信じたのですが、ただ漠然と神様を信じたのではなくて、神様は私を愛してくださった。その神様のご愛に心を向けたのです。そのことを信じたとき、彼は希望がわいてきた、望みがわいてきた。

 

23節に「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。神様のご愛に心を向けたとき、この人は本当に生きる望み、希望を見出すのです。そして、それは私たちも同じことです。全能の力を持った神様がどんなことでもしてくださると信じることも幸いですが、事によってはそれでは何か当てはまらない、そこには力が感じられない。問題によっては、そうではなくてもう一つかゆい所に手の届くような神様の信じ方は、神様は何をどうしようとしてくださるのか、神様の具体的な力にまで踏み込むことが大切です。だから、この悩みの中にあるときに神様の力を信じて望みを得られるときもあります。しかし、問題と事柄によってはそうではなくて、やはり神様のご愛の中に自分を見出すときに初めて感謝ができ、また喜びがわき、祈る力がわいてくることがあります。だから、私たちはどんなことの中でも、神様の何に今望みを置こうとしているのか、そのことをしっかりと自覚して信じたいと思います。哀歌を歌った記者は「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。神様が限りない愛をもって私を愛してくださっていることを信じた。

 

エレミヤ書31章1節から6節までを朗読。

 

3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」。これは神様がイスラエルの民に懇(ねんご)ろに慰め語ってくださった言葉ですが、ここに「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛しているのだよ」と言われます。神様は折に触れていろいろな時々に「我は全能の神である」とおっしゃるときもあり、あるいは「わたしはいつもあなたと共におるではないか。あなたのそばにわたしがいるではないか」と臨在の神としてご自身を現してくださるときもあります。また時には、義なる御方、裁く御方として「我は義なる神である」と、イスラエルの民に厳しく迫られるときもあります。神様はこのときイスラエルに対してご自分の何を証詞してくださったか。「愛である」ことの証詞です。神様はイスラエルの民に「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している」と言われた。その愛によってイスラエルの民は慰められ、力づけられ、新しい望みを与えられる。これは今の私たちにとっても同じことです。私たちが望みなき中にあるときに神様はご自身を「わたしはあなたを愛しているではないか」と、愛を明らかにしてくださる。だから、この3節に「主は遠くから彼に現れた」とありますが、これは思いもかけない形で、想像しなかった、そんなところにあるはずがないと思われるようなところから、神様は愛であることを明らかにしてくださる。そうなんですね。神様の愛は、私たちはもちろん、日常生活の事情、境遇、事柄を通して証詞されるのではなくて、ヨハネの第一の手紙に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4:10b)と言われているように、神様のご愛は十字架にある。十字架の主イエス・キリストを通して、神様はご自身の愛を証詞してくださる。ではそれ以外にないのかというと、実は十字架のご愛が私たちの生活のいろいろな中でポコッと顔を出してくるでしょう。いろいろなことで不平不満、あるいは行き詰まりを感じて落ち込んでいる。そのときに十字架の主を見上げるのです。失望落胆して祈りにならない祈りの中で主を求めていくとき、十字架がもう一度私たちの前に立てられるとき、「そうだった。こんな私のような者のために、イエス様は十字架を負うてくださる」と心に迫られ、主のご愛がそこから私たちの内に入ってくる。こんなことの中にと思われるところに、遠くから神様はご自身を現して、そのご愛がどこにあるか、またそのご愛が変わることなく、私たちに注がれていることを現してくださる。だから「それじゃ、これから神様の愛を知るために、いつも十字架を心に置いて」と思いますが、なるほどそれは幸いなことです。しかし、私たちの生活の中でそんなことも忘れてしまうし、イエス様のご愛のこともすっ飛んでしまって、目の前の問題や事柄に心を奪われてしまいますが、たとえそのような中にあっても、問題にぶつかって打ちひしがれ、しょ気返ったときに「わたしはあなたのために命を捨てたよ」と、十字架の主のご愛を神様のほうが照らしてくださるのです。そのとき私たちは「ああ、そうでした。主よ、あなたは今日も私を顧みてくださる。愛をもって生かしてくださっていらっしゃる」と、その恵みに出会う。3節に「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」。神様はこんな者を愛してやまない、神様のご愛の中に今日も許され生かされている自分であることを知ったとき、「もう望みがない」とか「生きる力がない」とか何とか言っている私たちは、そんなことはどうでも良い、神様の愛が私を覆ってくださるとき、私の内にあふれてくださるとき、望みを持つことができるのです。

 

だから、先ほどのところにもどりますが、哀歌3章22節に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。現実がどうであれ、私たちが置かれた問題や事柄や、あるいは希望がない、望みがない、力がない、その中にあって、どこに心を向けるか。それはただ神様がこんな私のために何をしてくださったか。神様は私のためにひとり子を惜しまないで、十字架の死に追いやってまで私を愛してくださった。今日も主のご愛が注がれている自分であること、私のためにイエス様が命を捨ててくださったところに神様のご愛があるのです。そのことを思うとき、何もつぶやくことも嘆くことも失望することもない。そのような神様が私を握ってくださっている。愛してくださっている方が、私たちを苦しめ悩ませ、それを喜ばれるはずがありましょうか。「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(マタイ 7:11)。すべてのものの与え主であり、すべてのものを満たすことができる神を信じる。そうなると、見える状態や事柄が何であっても、そこで失望落胆することはいらない。そうでしょう。こんな者を主が愛してくださるのですから。

 

だから、クリスチャンの生涯、イエス様を信じて生きる生涯は、言うならば浮世離れをしたところがある。というのは、神様を知らない人が、「これは大変だ。もうこれで失望だ。もうこれで行き止まりだ。もうこれ以上方法がない。失望落胆だ」と言っているときに、「いや、そんなの、大丈夫じゃない」と言えるところに、私たちの信仰の醍醐(だいご)味があるのです。「あんた、何!現実を見てご覧!そんなのんきなことを言える場合ね!」と言われたら、「そうね」と言っておけばいいのです。ところが、一緒になってわれわれは「いや、そうか。これは大変だ。あっちへ走ろう、こっちに走ろう」とする。信仰はどこにあるのかと思います。「大丈夫よ。主が愛をもって私を愛してくださる。神様が決して悪いことをするはずがないのだから」と。「何て馬鹿なことを言っている。今、あなたが置かれている現実はこうでああで、こうなって、もう後はないのよ!」と言われて、「そうね。でも大丈夫よ」と。「何か浮世離れしているね」と人に思われたら、皆さん本物ですよ。ところが、浮世離れどころか、浮世に沈み込んで希望を失い人よりも先に泣き出したのでは申し訳ない。

 

この哀歌を歌った記者は何と言ったか。「わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」。私たちには最後のよりどころ、実は最後ではなくて初めからのよりどころなのですけれども、「神は愛である」と信じる。神様は私を愛してくださっている。愛なる御方ですと信じること。これがどんなときにも幸いな恵みです。22節以下に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。しかも「朝ごとに」、毎日、毎日、神様のご愛はリフレッシュされる。リセットされて、新しい愛が注がれていく。昨日までああだったから、こうだったから、神様が今日は私を愛するといっても、ちょっと割り引かれているなと。昨日の実績に応じて今日神様は愛してくださるのかな。そうではない。「朝ごとに新しく」ですから、昨日までは昨日までで、それはおしまいです。今日もう一度神様は「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」、100パーセント の愛を注いでくださっている。この神様のご愛を信じていく。見える現実、喜べない、楽しめない、望みのない現実があっても、しかし、私はそうではない。神様は私を愛してくださっている。

ダニエル書にありますけれども、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴという、ヘブルの三青年が金の像を拝まなかったことで、ネブカデネザル王様から問われました。「お前たちはどうして…」、王様はその三人の青年を愛していましたから、何とか許したいと思ったのですが、彼等が頑として聞かなかった。そして「お前は火の燃える炉の中に投げ込まれるぞ!」と言われた。そのときにこの三人は「結構です。どうぞ投げ込んでくださって構いません」と言ったのです。「わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます」。ここまではいいのです、そのあとですね。「たといそうでなくても」と、燃える炉に投げ込まれて私たちが死ぬようなことがあっても、私たちは偶像、金の像を拝むことはしません。「たといそうでなくても」と、彼らはそこまで神様を信頼したのです。

 

私たちが神様の愛を信じる。神様は私を愛してくださっている。人から「現実を見てごらん。これがある、こんなことが、あんなことが…、それでも神は愛か?」と言われる。「たといそうでなくても」ですよ。「ええ、そのとおり。私が死ぬようなことがあっても、私が野垂れ死にするようなことがあっても、どんなことがあっても、神様は私を愛してくださっている。たといそうでなくても、私は神様のご愛を疑いません。神を信じていきます」。これは私たちのよりどころです。絶えずこのところにとどまっていきたいと思います。

ここにありますように「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。見える現実や事柄に心を奪われることがないように、絶えず主のご愛に立ち返って、愛に潤されて、主を信じて生きたい。主のご愛を本当に固く信じてそこにとどまっていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。